熊を見つめた男たち

コンパニオンアニマルとして熊を見つめた3人の男性についての考察です

1907年のカール・ハーゲンベック〜柵のない動物園

カール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 1844〜1913)はドイツ人。世界で初めて柵のない動物展示を行った。無柵放養式展示(むさくほうようしきてんじ)と呼ばれるものである。それが1907年のハンブルク動物園だ。ハンブルク動物園は今も営業しているようである。

現在日本でもこの柵のない動物展示は多くの動物園で見ることができる。多摩動物公園に昆虫生態園というのがある。陽射しのよく入るガラス張りの温室には何千匹もの蝶が放し飼いにされている。温室内で音を立てずに静かに佇んでいると、生きた蝶がひらひらと翔んできて、ひょいとわたしの手のひらに止まる。この動物(広い意味で生き物ってことですね)展示は素晴らしいと思わず息を飲むばかりである。

カール・ハーゲンベックは魚商だった父親に付いてフロンティアの珍しい動物の売買を手伝うようになり、やがて沢山の虎やライオンなどの猛獣たちを船の長旅でヨーロッパやアメリカへと運搬するようになる。彼が何故猛獣を手なづける調教師としても世界に知られるようになったのだろうか。わたしはそれをずっと考えていた。

動物展示の始まりはメナジェリーと呼ばれる貴族たちの「珍品・貴品」の展示であった。始まりは宮殿の一室を解放して私物を自慢し合うという雰囲気だったので招かれるのはもちろん王室や貴族たちのみだった。

動物園として世界で初めて一般市民に解放された生体動物園は1779年のオーストリアのシェールブルン動物園で、期間限定ではあったが入園料は無料だった。メナジェリーはあくまでも自宅へ招いたお客に良い物を見てもらうというニュアンスなのだ。

カール・ハーゲンベックの次男ローレンツ・ハーゲンベックはサーカス団を率いて世界中を回った。昭和8年(1933年)には日本興業もあった。

昭和8年の名古屋興行でローレンツ・ハーゲンベックが名古屋市を訪れた日、サーカス団は県庁近くで公演をした。当時名古屋市動物園に就任したてだった北王英一園長が期間中ローレンツの宿舎をしきりに訪ね、柵のない動物園について、熱帯の動物を寒帯の気候に慣れさせることについて、はたまたその地域の餌で異国の動物を飼育するという技術についてなどを熱く語りあったという記録がある。

昭和11年、名古屋市動物園は東山動物園として開園したがライオン舎とホッキョククマ舎に無柵放養式展示を取り入れた。施設工事の際、ローレンツから贈られた資料を基に展示動物と人間とを仕切る堀が掘られたが、こんな堀では危ない、猛獣たちが堀を飛び越えてこっちへ来てしまわないかという声が多かったという。

カール・ハーゲンベックが猛獣を手なづけることが出来たのは何故だろう。彼は1907年に書かれた手記の中でとにかく動物が大好きなんだと繰り返し書いている。猛獣たちは性格が凶暴なのではありませんか?という質問には「凶暴な動物もいればそうでない動物もいる、わたしは良い動物を選んでいます」と答えている。

昭和8年の日本興業の年にはカールは既に亡くなっていたが、息子であるローレンツの率いるサーカス団は大きな動物展示施設としてサーカスと動物園との繋がりを感じさせる広告がうたれたという。それは「サーカスのおかへりにはハーゲンベック動物園へどうぞ」というものだった。

また「一度は動物のパラダイスであるハーゲンベック動物園での生活を送り、質の好いのが選ばれては順にサーカスへ送られる」という記述などからは、施設としてのハーゲンベック動物園が動物を、個体としてその資質や特性を細かく観察し評価する場所であったことがわかる。

カールは世界中の動物園に猛獣を売って歩いた。彼は珍しいフロンティアの動物を所有したい金持ちたちにも動物を提供したが、動物たちが死なないように、無駄に苦しまないように細心の努力を払った。

1907年のハンブルク動物園の無柵放養式は斬新であったとされるがカールにとっては当たり前の展示であったのかもしれない。そもそもアフリカのサバンナやインドのジャングルには柵などない。ドキドキしたかもしれないし、危ない目に遭うことも多かったと思われるが動物に会いたければ動物の領域に踏み入らねばならない。

前述の多摩動物公園の昆虫生態園だって虫嫌いの人には結構なハラハラドキドキだ。カール・ハーゲンベックはそんなハラハラドキドキの動物との出逢いをなにより大切にした。きっとそうなんだと思うのだ。

サーカスと動物園の繋がり、またジプシーの熊使いとの動物売買のやりとりなどを続けて書いてゆきたい。