熊を見つめた男たち

コンパニオンアニマルとして熊を見つめた3人の男性についての考察です

芸術療法〜(21)爪の形

長年だ。生まれてからずっとである。わたしは自分の手が嫌いであった。その反動だろうか。他人の手をつい見てしまうのだ。ゴツゴツした手、細く華奢な手。大人なのに小さい手、外見の割に大きな手。

かのショパンは一見ゴツくて小さな手をしていたそうだがその小指がとても長かったそうで鍵盤は軽く10度は届いたという。もっともショパンが今のフォルテピアノを弾いていた可能性は低い。ピアノそのものも小型であった。

わたし自身ピアノを弾いたりギターを弾いたりするようになって自分の手が節くれてデカいことを疎ましく思うことが減った。そしてピアノ弾きとギター弾きは両立しない。スチール弦で指先が硬化してしまうと鍵盤上は困ることが多い。

占い師をしていたとき超短時間で客を捌かねばならない場面では手相も鑑た。宴会場で、とか、あのうちょっとお願いしますとかいうイレギュラーな場面でわたしは時々、先ずは客の手をギューと強く握ることをした。

誰から伝授された訳でもない。相手は初めて出逢った誰かである。即座に信頼関係を結ぶにはこの方法は効果的だった。わたしのまるで作り物のような大きな掌がそんな風に如何なる場面でもアドバンテージを保てたのだ。

わたしは最近わたしにだけ与えられたこのわたしの手をじっと見ることが増えた。長く瓜実型に爪を伸ばした細い指への憧れは今もあるが大きな手指の先にある小さな爪にカラフルなネイルを塗るのが最近の愉しみだ。

ネイルを塗りながら手に対してのバランスのおかしな、ほんの申し訳程度の小さな爪をじっと見る。四角い爪。右手の爪たちは左手の爪たちより若干大きいとが左手そのものは右手より僅かに大きいのだからわたしの手は手そのものが言うなれば奇形と言うしかない。

濃い青、または濃い黄色。爪を塗り潰す。ふと今はもうわたしは自分の手をそんなにも嫌ってはいないことに気づくのだ。変な手。そんなことを呟きながら丁寧に丁寧にネイルを施す。

(手違いで熊の方に投稿してしまいました)

熊人形製作者リヒャルトの見た世界(草稿)

何から書きはじめたらいいだろう。リヒャルトについて何かを書いたとしてそれがこの世界の熊人形製作のはじまりの物語ではない。ヒトと熊のリレーションシップは悠久の歴史を持つのである。

しかしそのような時間の流れの中にあって熊人形製作者としてのリヒャルト・シュタイフは革新の人であったと言える。1900年頃に弾けるようにしてはじまるシュタイフ社に於ける熊人形製作はその作品の評価、製造工場シュタイフ社の企業的試み、発売と共に世界中に沸き起こる熊人形の需要という数々の要素がリヒャルトは技術的かつ知的な冒険者であると証明している。

革新的な歩みは少数の人の、他人には思ってもみないような実験的な行動の結果であることが往々だが、彼は果たして真の意味で少数派だっただろうか。とりあえず彼がドキドキはらはら博打がやめられぬ破天荒な反社会的人格障害を患っていたという文献は今の所見つからない。

周囲から革新でアヴァンギャルドと評価されること、「えっ、そんなことを?」と言われてびっくりされること。それらは実は特に奇をてらい、周囲の注意を引こうとしてそうしているわけではない。それらの提案を当人らは「どうしても」そうしているのである。

シュタイフ社の熊人形はのちにテデイベアにカテゴライズされ、世界の玩具の主流となる。

ある日リヒャルトは手足の動く本物そっくりの熊人形を量産しようと会社に提案したが、当時のドイツ南西部における文化的背景がその提案をはじめ受け入れなかった。

受け入れなかったのはシュタイフ社の幹部たちだけではない。ドイツ北東の都市での見本市でも熊人形は全く売れなかった。

本物そっくりでなければ、とリヒャルトは考えた。しかし本物の熊そっくりだったからこそシュタイフ社の新作は見向きもされなかった。

これからわたしはリヒャルトの見た世界を書き続けたい。彼は「どうしても」を生きた真の芸術家であった。

1907年のカール・ハーゲンベック〜柵のない動物園

カール・ハーゲンベック(Carl Hagenbeck 1844〜1913)はドイツ人。世界で初めて柵のない動物展示を行った。無柵放養式展示(むさくほうようしきてんじ)と呼ばれるものである。それが1907年のハンブルク動物園だ。ハンブルク動物園は今も営業しているようである。

現在日本でもこの柵のない動物展示は多くの動物園で見ることができる。多摩動物公園に昆虫生態園というのがある。陽射しのよく入るガラス張りの温室には何千匹もの蝶が放し飼いにされている。温室内で音を立てずに静かに佇んでいると、生きた蝶がひらひらと翔んできて、ひょいとわたしの手のひらに止まる。この動物(広い意味で生き物ってことですね)展示は素晴らしいと思わず息を飲むばかりである。

カール・ハーゲンベックは魚商だった父親に付いてフロンティアの珍しい動物の売買を手伝うようになり、やがて沢山の虎やライオンなどの猛獣たちを船の長旅でヨーロッパやアメリカへと運搬するようになる。彼が何故猛獣を手なづける調教師としても世界に知られるようになったのだろうか。わたしはそれをずっと考えていた。

動物展示の始まりはメナジェリーと呼ばれる貴族たちの「珍品・貴品」の展示であった。始まりは宮殿の一室を解放して私物を自慢し合うという雰囲気だったので招かれるのはもちろん王室や貴族たちのみだった。

動物園として世界で初めて一般市民に解放された生体動物園は1779年のオーストリアのシェールブルン動物園で、期間限定ではあったが入園料は無料だった。メナジェリーはあくまでも自宅へ招いたお客に良い物を見てもらうというニュアンスなのだ。

カール・ハーゲンベックの次男ローレンツ・ハーゲンベックはサーカス団を率いて世界中を回った。昭和8年(1933年)には日本興業もあった。

昭和8年の名古屋興行でローレンツ・ハーゲンベックが名古屋市を訪れた日、サーカス団は県庁近くで公演をした。当時名古屋市動物園に就任したてだった北王英一園長が期間中ローレンツの宿舎をしきりに訪ね、柵のない動物園について、熱帯の動物を寒帯の気候に慣れさせることについて、はたまたその地域の餌で異国の動物を飼育するという技術についてなどを熱く語りあったという記録がある。

昭和11年、名古屋市動物園は東山動物園として開園したがライオン舎とホッキョククマ舎に無柵放養式展示を取り入れた。施設工事の際、ローレンツから贈られた資料を基に展示動物と人間とを仕切る堀が掘られたが、こんな堀では危ない、猛獣たちが堀を飛び越えてこっちへ来てしまわないかという声が多かったという。

カール・ハーゲンベックが猛獣を手なづけることが出来たのは何故だろう。彼は1907年に書かれた手記の中でとにかく動物が大好きなんだと繰り返し書いている。猛獣たちは性格が凶暴なのではありませんか?という質問には「凶暴な動物もいればそうでない動物もいる、わたしは良い動物を選んでいます」と答えている。

昭和8年の日本興業の年にはカールは既に亡くなっていたが、息子であるローレンツの率いるサーカス団は大きな動物展示施設としてサーカスと動物園との繋がりを感じさせる広告がうたれたという。それは「サーカスのおかへりにはハーゲンベック動物園へどうぞ」というものだった。

また「一度は動物のパラダイスであるハーゲンベック動物園での生活を送り、質の好いのが選ばれては順にサーカスへ送られる」という記述などからは、施設としてのハーゲンベック動物園が動物を、個体としてその資質や特性を細かく観察し評価する場所であったことがわかる。

カールは世界中の動物園に猛獣を売って歩いた。彼は珍しいフロンティアの動物を所有したい金持ちたちにも動物を提供したが、動物たちが死なないように、無駄に苦しまないように細心の努力を払った。

1907年のハンブルク動物園の無柵放養式は斬新であったとされるがカールにとっては当たり前の展示であったのかもしれない。そもそもアフリカのサバンナやインドのジャングルには柵などない。ドキドキしたかもしれないし、危ない目に遭うことも多かったと思われるが動物に会いたければ動物の領域に踏み入らねばならない。

前述の多摩動物公園の昆虫生態園だって虫嫌いの人には結構なハラハラドキドキだ。カール・ハーゲンベックはそんなハラハラドキドキの動物との出逢いをなにより大切にした。きっとそうなんだと思うのだ。

サーカスと動物園の繋がり、またジプシーの熊使いとの動物売買のやりとりなどを続けて書いてゆきたい。

クマとの出逢い〜近代ドイツ近郊に於ける熊と人間の関わり

リヒャルトがはじめて熊に出逢ったのはいつだろう。

現代のわたしたちの身の回りにはじつは熊は溢れている。ディズニーのクマのプーさんは世界的なクマのアイドルであるし、リラックマくまモンはニッポンを代表するクマタレントたちだ。わたしは最近”コリラックマ”なるクマの赤ん坊キャラクターを知り緩い衝撃を受けた。今やリラックマ族は全国展開コンビニチェーン店の販促業を一手に任されているのだ。

名前が付けられる前の沢山のテディベアたちはどうだろう。テディベアたちを本当に熊と呼んでいいか。漫画化され、生まれながらにして人間たちに弄ばれる。アメリカの大統領や軍人のなにがしがテディベアを戦地や会議に携帯したというがそんなテディベアたちにはもはや尊厳は無い。戦争や不完全な政治の片棒を担がされたのだ。

リヒャルトにしても彼がそんなに立派な人だったかどうかはわからない。わたしがリヒャルトにこだわるのはだったひとつ。リヒャルト以前に柔らかいリアルなクマの人形は無かった。

つまりリヒャルト以降の人間たちは柔らかで従順な、自分本位な人間たちの意のままになる歪んだ熊しか知りえなかった。だからと言ってそれを憂いているというわけでは無い。悪意は無かった。そして人形には意識など無いのだし人形を燃やしても壊しても責任を追求されることはない。

わたしがリヒャルトの思い、熊を見つめる彼の眼差しを知りたいと思うのはいっときのシンパシーやテディベアたちごめんなさいの贖罪ではない。

熊を知りたいのだ。

熊は力が強い。それは悪いことだろうか。熊は記憶力が良い。ヒトの真似をする熊の動画を見てわたしはただ呑気に笑うだけではないのだ。

二足歩行をして前足の五本の指で器用に物を持つことが出来る。ヒグマは大柄な男性と身長が同じくらいであり、眼球は顔の正面に並んでおり前方を見ている。熊は魅力的である。

リヒャルトに戻ろう。

1900年前後のドイツ南西部ではすでに東西各地からの物資や情報が流通しており、様々な要因でリヒャルトの熊に対する感覚は大きく変化を遂げた。

当時のヨーロッパでは植民地で捕獲した大型動物を鑑賞する娯楽が既にあった。マルガレーテがひどく憧れた”ゾウ”のイラストはアジアゾウもしくはアフリカゾウで、サーカスの巡業のポスターであったし、それ以外にも小規模な移動動物園なるものもあったという。

シュタイフ社は何種類かの動物を人形にしたのち、リヒャルトの提案で熊のモチーフを得たが、何故それまでシュタイフ社は熊人形を作らなかったのだろうか。

フロンティアの珍しい動物たちに対して熊は劣ったのだろうか。

本当のところは知りえないがリヒャルトは熊が好きだった、それだけは事実であろう。

調べていて意外であったのはドイツ近郊のヨーロッパでは熊が当時から溢れていたようである。生きた熊が溢れているということは野良猫を見かけるというのとはだいぶ違う。

ネイティヴアメリカンたちの言葉には「熊」に相当する単語がないという。彼らは熊を見て「あら熊だわ」と軽はずみに呼ばなかったのだ。

複数の文化圏に熊を意味する婉曲表現が存在する。わたしのよく知る動物園に居る一頭のヒグマは飼育係りの男性には「親父さん」と呼ばれている。飼育係りはけして「おい熊」とは言わないのだ。だがしかし飼育係りの男性もわたしからしたら結構な親父さんである。

リヒャルトはおそらくその子ども時代より野生の熊を恐ろしく感じて育ったかもしれない。では彼が熊人形を作りたい、僕が欲しいんだからみんなもきっと欲しいはずだと確信したきっかけは何だったのだろう?

リヒャルトはごく初期にマズルベア、つまり口輪を付けヒトを噛まないようにしたテディベアを発表した。これはリヒャルトの熊像、熊のイメージを明らかにする作品だと言えると思う。

1900年前後のドイツ近郊に於けるサーカス巡業と小規模な移動動物園の風景を調査している。

次回より少し横道にそれることになるけれど猛獣たちを如何にしてなだめんと労苦した数人の男性についてしばらく記載したいと考えている。

シュタイフ社 1902年 55PBとはどんなテディベアなのか

現在テディベアを作っている工場は世界中に幾つくらいあるのだろう。日本ウォーグ社 ポーリン・コックリル著「テディベア大図鑑」の巻末資料によればテディベアを扱う博物館及び老舗販売店として12カ国130のアドレスが載せられている。

ポーリン・コックリルは冒頭でこう書いている。「本来なら獰猛な肉食動物の熊が、子どもたちから可愛がられるおもちゃに変身するなど、とても考えられないことだろう」。

ふわふわとした触り心地の良いテディベアをリヒャルトがデザインする前からスイスやロシアでは木彫りの熊をオブジェや子どもたちのおもちゃとして製造していた。当時熊はサーカスで曲芸をする動物としてヨーロッパやアメリカ大陸では知られていた。

「テディベア大図鑑」にはざっくりと『シュタイフ1902ー05』としてそのころのテディベアがずらりと並んでいる。55PBの写真は無く幾つかのテディベアは復刻版である。

しかしながらこの図鑑にはテディベアへの愛が溢れている。240頁の大型本のどこを開いても前向きにお座りをしたり首を傾げたりしているテディベアとテディベアを抱いて満面の笑みでポーズをとる人々が写っている。

眺めているととても楽しい。55PBの特徴をどうのと言っていられなくなる。ポーリン・コックリルはテディベア図鑑を他にも何冊か出版しているが、中にはポケット版サイズで一頁に一体のテディベア、どの会社のどのテディベアにもきちんと一頁を充てている本もある。

テディベアは尊厳を重んじられている。愛されているテディベアは本当に可愛い表情をしている。

ポーリン・コックリルはテディベア第一号リヒャルトの55PBにも言及している。全文を転載してみる。「リヒャルト・シュタイフが満足のいく可動ジョイントシステムを作り出す試みを始めたのは1902年だった。糸ジョイントの素朴な動物が幾つか考案された。そのひとつが茶色いBär55PB(Bärはドイツ語で熊)で、座高が55㎝あり、フラシ天(plush)製で、手足や首が動かせる〜beweglish〜ことからそう名付けられた」。

ポーリン・コックリルはこのあとの文章で多くの特許を取得した1905年のBär28PBを貴重なテディベアだと特筆している。Bär28PBもリヒャルトの代表作である。

いったいこの大図鑑には何体のテディベアが載せられているのだろうか。テディベアは皆素晴らしいのだとポーリン・コックリルは文章を出来るだけ省いているようだ。生き生きしたテディベアたちが紙面を埋め尽くす。リヒャルトの熊がどうのと、無粋な話だとわたしも一瞬思う。

わたしが55PBのデータから考えずにいられない特徴のひとつがその体高である。リヒャルトは様々な体高の、つまり平たく言えば様々なサイズの熊を作った。初期シュタイフの頁にはテディベアが五体載っていて、28㎝がひとつ、38㎝かふたつ、45㎝がひとつ、それから55PB、55㎝である。

大きめのテディベアには70㎝や60㎝というのもある。ではなぜリヒャルトはテディベア第一号の体高を55㎝にしたのだろうか。

マルガレーテはその回顧録によればリヒャルトの55PBに「子どもたちには大きすぎる」とクレームをつけている。もしもリヒャルトが子どもたちが抱くことを想定していたら55㎝のテディベアを企画会議に提出するだろうか。

リヒャルトはシュトゥットガルトの工芸学校でプロダクトデザインを学んでいる。作品のサイズは質感や用途より、何より優先されるはずである。リヒャルトは敢えて55㎝の大きさを選んだのである。

わたしはいつかBär55PBを「シュタイフ社を汚す作品」と評した文章を読んだことがある。作品の良し悪しは人それぞれが感じるものだが、この文章を読んでからだ。わたしは55PBが見たくて堪らず検索をしたが未だにそれほどの汚らわしいテディベアを見ることが叶わないのだ。

ある人は素晴らしいと褒め、またある人は汚らわしいと嫌う。これはその作品が強い個性を放っている証しではないか、そんなことをその時に思った。

わたしは新しい木彫り熊を買うと必ず前足を丹念に眺める。熊は手足の関節の可動域が大きく、器用に動かせる前足の指を使って車のドアを開ける熊の動画を見たことがある。そして前足を使う時には後ろ足を強く踏ん張るのだ。

この図鑑の55PBの右上には55PBを横から見た写真がある。右手を軽く上げている。

あっ。

わたしは図鑑の頁に一体の木彫り熊をでんと置いた。札幌の荒木工房の木彫り熊である。比較的新しい作品だがわたしが1番気に入っている熊である。長い鼻面、惚けたような口元。

ポーリン・コックリルさん、リヒャルトのシュタイフ55PB、札幌の木彫り熊にめっちゃ似てますよ。

まことに主観的であるが北海道の木彫り熊を可愛いという人にはあまりお目にかからない。特にこの荒木の熊は猛々しくてキレッキレである。わたしは考える。そうかリヒャルトはこんな熊が好きだったんだなあ。

あっ。55㎝の意味をわたしはその時悟った。リヒャルトは自分で抱っこして丁度いい大きさにしたのではないか。大人の男のためのテディベアであったのではないか。だからそうか子どもには少し顔が怖かったのかもしれない。見てみたい、1902年の全然売れなかったライプチヒの見本市のリヒャルトの55PBを。

リヒャルト・シュタイフは大人の男たちのためにテディベアを作った。リヒャルトは自分が納得出来る自分用のテディベアを作ったのだ。まことに私見ながらそんなことを思っている。

Richard・Steiff (リヒャルト・シュタイフ)①

シュタイフ社創始者マルガレーテ・シュタイフの甥。

1902年 テディベア第一号55PBのプロダクトデザインを手掛けた。55は座高サイズを、PはPlush(ドイツ語フラシ天)で素材を、BはBeweglich(ドイツ語可動)で肩と股関節が可動する部品を内蔵していた。

1903年 55PBはライプツィッヒの見本市でたった1人米国人バイヤーの目に止まり3000体を受注する。

リヒャルトの55PBは生き生きとしたリアルな熊を目指したデザインであったとされている。素材のフラシ天とは純毛のフェルトのモヘアであり55PBは経年劣化を避けられなかった。また後年に研究対象となることなどをはもちろん想定しておらず55PBは現存していないがデザインの一部は写真で確認出来る。

55PBのデザインの考察はリヒャルトが熊をどう見ていたか、コンパニオンアニマルとしての熊が当時のいちドイツ人男性としてのリヒャルトに及ぼした影響がどんなものであったかを垣間見させてくれるものとなる。

55PBがライプツィッヒの見本市で米国人バイヤーのみの目に止まったことが真実であるならばその日米国人バイヤーが55PBを目にした瞬間(ひょっとして手に取り抱きしめたかもしれない)の心象が興味深い。

①「これは見たことがない」野生の熊をモチーフにした木彫りデザインはフィンランドなど北欧諸国やロシア等には既存であったがふわふわしていたものは皆無であったと思われる。シュタイフ社のフェルト工芸は当初衣類とインテリアだが羊毛加工技術としてのフェルト加工そのものは当時は新参であった。

②「これは売れる」この仮説は是非とも立証したい。ライプツィッヒの見本市で売買されていたものは売れ筋のデザイナーズブランドばかりではなかったはずである。シュタイフ社は熊以外のフラシ天のぬいぐるみを既に販売していた。それらはマルガレーテ・シュタイフの回想を主とする文献(そして日本語で読める文献)によれば子どもたちのコンパニオンアニマルとして需要があった。リヒャルトは55PBについて「家族とペットの中間」とコメントしたとある。

男性が熊という動物をどう認識しているか、という疑問にこのコメントは少なからず、いや完全な答えを述べている。

優れた家畜の要素には幾つかある。荷役(運搬)、毛皮(衣服とインテリア)、食肉(繁殖後屠殺して食用とする)、搾乳(家畜を屠殺せずに母親動物の子育て中のミルクを採る)。もっとあるかもしれない。

そして家畜としての優れた存在理由のひとつにコンパニオンアニマルがある。いわゆるペットとはここに位置する。盲導犬などの生活補助を除く一般的な愛玩動物の大部分は小型犬、猫であるが、荷役としての大型犬、ロバや馬なども一個体として人間と内面で対峙し得る優れた能力を持つコンパニオンアニマルと言える。最近ではカテゴリーが難しい幾つかのげっ歯類(リスなど)と爬虫類をエキゾチックアニマルと称してペットとするのは周知である。

さて熊はどうであろうか。文学、音楽、絵画などのモチーフとしての熊も興味深いが1902年のリヒャルトの55PBはそれらのアートとは一線を画すものだ。

何故熊を傍らに置く必要があるのか。抱きしめることは果たして必要か。

実際マルガレーテの回想には55PBとなる以前のリヒャルトによる提案を「これは売れないと思った」とある通り、熊を傍らに置きたいという需要が女性には見えないものなのかもしれない。

③「これが欲しい」米国人バイヤーは55PBを見て単純に自分用にこのオブジェを欲しいと感じて買わずにはいられなかった可能性は極めて高い。米国人バイヤーは55PBを手に取り抱きしめもしたことだろう。わたしは当時のフラシ天の感触がどんなものだったのかがわからないので米国人バイヤーが55PBを抱きしめた時の感覚は正直わからない。

初期シュタイフのテディベア作品に共通しているのはその顔である。生きた熊は獰猛であるとされるし、実際に怒りを発している熊は極めて危険な存在である。ところが熊の目鼻立ちは総じてユーモアを持っていて、かえって近づき易く微笑みかけたくなるような面白いものである。狸や狐、猿などと比較してみれば一層判りやすいが熊たちは皆まるで現実逃避をしているかのようななんだか眠そうな顔をしているのだ。

1902年のリヒャルトの55PBはコンパニオンアニマルとしての熊の謎を解く鍵を含有するたいへん興味深い作品である。

これらの仮説を時間を掛けて証明し、修正する過程が楽しみでならない。

わたしは女性であるはずだがおそらくはリヒャルトの熊を内面に持っていると日々感じている。熊が好きだと言ってもなかなか真意が伝わらない。家畜として(リヒャルトは家畜以上と言ったが)、コンパニオンアニマルとしてわたしは熊が必要なのである。

この覚え書きはまだまた長く続きます。わたしの能力に限界があり研究の資料の検索速度は遅く、今後そうとは知らず嘘も書いてしまうかもしれませんがこれは営利目的の研究ではありません。虚偽はその都度謝罪をして訂正させていただきます。

今後性別を問わず脳内に熊を必要とされる方のコメント、また資料の交換等、情報の提供して下さるならたいへん嬉しく思います。ブックマーク欄にてやり取りしたいと思います。